古典インドの言語哲学(1)の「声ー音韻論者の見解ー」に
興味深いことが書かれています。

「身体の内部で発動する発声努力によって、上方へと昇ら
された気息(プラーナ)と呼ばれる風(ヴァーユ)は、
身体内部の火に助けられて、声を運ぶ諸々の穴を通じて、
声の繊細な部分を集める。それはちょうど、上昇するひとすじの
煙が、火に助けられて、繊細な部分を集めるのと同じである。
それぞれの発声部位においてこのようにして集められた声の
集合体は、単一の内的なコトバの不可分の影像を、ある光と
しての部分単位によって、受け入れる。」

古代には、声をこのように考えていた(感じていた)人がいた
のかと思うと、ほんとうに驚いてしまいます。

古典インドの言語哲学はまだまだ勉強中なのですが、上昇する
ひとすじの煙が、火に助けられて、繊細な部分を集めるような
知的な働きを感じるのは困難なことかもしれませんが、現代人
でも断片的には感じることができるようにもおもうのです。

考え続けていると写真のような景色をもつことができるのかも
しれませんが、それらをうまくつなげるには視覚や触覚も
必要になり、人間がこのような精神を感じるには、喜びの中に
であって苦しみの中にではない、ということも感じる必要が
あるでしょうか。

つなぎであるあいだは抽象的なものであると思いますので、
できる限り具象化することや、美に向かうための方向を
デザインで示すことができれば、奥行きのある映像を映し出す
ことができるようにも思います。

まだぼく自身が見ている景観はぼやけている部分も多いので、
光景、風景、情景をもっと明確にして統合化していきたいと
考えています。

 

 

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