文字

「言語は身体の迷宮を通りぬけて浮上してくる。文字もまた
そうだろう。文字は実在しない、こう考えたほうが、文字と
ダイレクトに向き合える。文字は、動機によってさまざまな
階層に存し、また消えていく。階層とは、定着している用語に
よれば、おもには、字体、書体、字形である。」

(グラフィック・デザイナーの鈴木一誌氏から引用)

「言語が浮上してくる」という表現はとてもすきです。ぼく自身
動詞の使い方にもっと幅をもたせたいと思っています。そうする
ことで交わった場所からも新たな発見があるでしょうか。

文字とダイレクトに向き合えるようになることは、言葉と身体の
関係性を深めていくうえで大切なことだと思います。

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ことばを学ぶ

ぼくにはもうすぐ2歳になる息子がいます。これまで大きな病気や
怪我もなく、すくすくと元気に育っています。息子からは毎日多くの
学びをもらっています。ほんとうにありがたいことです。

父親として彼に望むことは、ことばに敬意を払って生きていって
ほしいと願っています。偉そうなことを言っていますが、ぼく自身
言葉に敬意を払えているかといえばまだまだです。息子に丁寧に
言葉を伝えながら自分自身も言葉を学び直していきたいと考えています。

ぼくの考えることばの教育のなかで、言語アートのようなものを
新たに創れないものかとおもいを巡らせています。もちろん今現在
ぼく自身が教材としての言語アートをすぐに創れるわけではありません。

言葉の見方が変われば、語学だけでなく、スポーツにも数学にも
様々な分野に関わる自身の感覚が変わり、それぞれのつながりが
良くなっていくように思うのです。

これから言葉を学んでいくなかで文字を描いていくことも
ぼくにとって重要なことになっていくと感じています。美しいかたち
を創り出していくために多くを学んでいきたいと考えています。

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松岡正剛氏 編集工学

先日、KK塾に参加してきました。
今期最後の講師は松岡正剛氏でした。

ぼくはこれまで何度も松岡氏の話を聞かせていただき、
言葉、言語に関わる多くの学びをいただきました。
今回の編集工学の話のなかで気になった言葉は動詞でした。

「またぐ」「わける」「ゆらぐ」「にじむ」などのなかで
特に興味深かったのは、最後に話された「言葉がにじむ」
という話でした。

ぼく自身、動詞についてもっと自由に使えるようになれば、
新たな感覚を感じることができるようにもおもいました。

松岡氏からは「言葉と身体は一緒です。」という言葉を
以前いただきました。その時から言葉への見方や考え方が
より良い方向へ向かっていっていると感じています。いつも
多くの学びをいただいていることに心から感謝いたします。

KK塾では川崎氏と講師の皆様に多くの学びをいただきました。
今後の自分自身の場創りに活かしていきたいです。
ほんとうにありがとうございました!

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読書会

お盆に当スタジオで読書会が開催されました。この読書会は年に一回の
ペースで開催され、今年はぼくのスタジオで集まることになりました。

参加者は14名。今回は「旅」というテーマで、旅から連想される本を
参加者のみなさんそれぞれが選び、その本をお互いに紹介しあいます。

歴史、科学、思想、文学、教育、絵本、漫画など興味深いお話ばかりで、
みなさんの想像力によって生まれた言葉に包まれたあっという間の10時間でした。

今回、ぼくが選んだ本はスーザン・ソンタグの「写真論」でした。

この本は1年半前ぐらいに書店で見つけて購入しましたが、
前回は自分の中に落とし込むことができなかったので再度チャレンジしました。

スーザン・ソンタグは、第一章のプラトンの洞窟でこう述べています。

「写真はひとつの文法であり、さらに大事なことは、見ることの倫理である
ということだ。(中略)写真を収集することは世界を断片を収集することである。」

興味深いですね。写真がひとつの文法であるならば、写真と言葉との
関係を感じますし、断片を収集するということは、自身のなかで解体されて
しまったものを編集することにもつながります。

第三章のメランコリーな対象では、ベンヤミンは引用文の熱心な収集家
であったということにもふれています。本文から引用します。

「ベンヤミン自身の理想の計画が、写真家の活動の昇華した形のように
読めるからである。 この計画というのはまったく引用文だけからなり、
したがって感情移入を示すようなものは一切欠く文学批評の仕事であった。

感情移入を拒否し、御託宣屋を軽視し、見えないことを求めること―
これが大方のプロの写真家が支持していた戦略である。写真のなかに
普遍化されると、過去を保存する行為を通じて過去の解体を積み重ね、
新たに平行した現実を組み立てることによって過去を直接なものにしながら、
現在を過去に、過去を過去性へと変貌させることになるのである。

現在に向いているようでも、やはり過去の感覚と結びついているある情熱に
かきたてられるという点では、写真家も収集家と同じである。」

ボードレールにもふれていました。

「写真家はくず拾いの足跡を辿るのである。それはボードレールが好んで
近代詩人の象徴に使ったもののひとつであった・・・。(中略)
大都会が捨てるあらゆるもの、それが失うあらゆるもの、それが軽蔑する
あらゆるもの、それが踏みつけるあらゆるものの目録を彼は作り、分類する・・・。
彼は事物を分類し、上手に選ぶ。」

収集したものを分類する。くず拾いで収集したものを分類して上手に選ぶと
述べられています。この“上手”というのが重要でしょうか。

断片を道具箱にただ入れているだけではその可能性を活かすことはできない。
それでは方法を生み出せない。独自の感覚で選ぶのではなく、
分類して上手に選ぶこと。これはぼくにとって大きな発見でした。

第四章の視覚のヒロイズムでは、ヴィトケンシュタインにもふれていました。

「個々の写真は断片にすぎないから、その道徳的、情緒的な重みは
それをどこに挿入されるかにかかっている。一枚の写真はそれが見られる
文脈によって変わるも のである。

ギャラリー、警察のファイル、写真雑誌、一般ニュースで見た場合は違って
見えるだろう。これらの状況はそれぞれちがった用途を暗示しているが、
どれも写真の意味を確実にすることはできない。ヴィトケンシュタインは
言葉を論じて、意味とは用途で“ある”といったが、写真もまた同じである。」

写真論からベンヤミン、ボードレールを通り、ヴィトケンシュタインへ。
写真論から言葉を学ぶことができるということが、今回の読書でぼくが
獲得したものでした。

この流れを子供の言語教育に活かすことができないだろうかと思うのです。
わかりやすい写真や美しいデザインを使用して、子供たちの年代の状況を設定し、
収集と分類を楽しむことで言葉を学ぶことができたら素晴らしいことです。

くず拾いで収集したものを分類するのは、もしかすると大人より子供の方が
上手なのかもしれない。普段、大人が捨ててしまっているものを、もう一度
見つめ直すことができれば大切なものに気付き、自身がもっている言葉への
接し方も変わってくるのではないでしょうか。

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2015年9月2日 | コメント/トラックバック(0)|

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