九鬼周造

「九鬼周造のなかの、幾何学的精神に何か負うとする気持と、
あんまり俗な具象的なものではなく、もっとやわらかな、
ぼんやりした不可解なものをつかもうとする気持と、この
二つが、九鬼さんの言葉を使えば主観的芸術へ向かわせたの
じゃないでしょうか。」

これは引用ですが、興味深いです。九鬼周造は主観的自由芸術
として模様、建築、音楽などをあげていて、音が絶えた瞬間の
しじまみたいなところに、日本人の本当の音があって、それは
「いき」の世界に通じることだとぼくはおもっています。

音が消えていく瞬間みたいなところをぼく自身が深く感じる
ためには、耳からだけでなく、自身の身体の内側から音を
感じることが大切で、身体に響く音(話し言葉)を追求して
いくことも「いき」につながることであるように思う。

「音」というとスピーカーから出てくる音をおもう人も多い
と思いますが、その音はぼくのいう音(話し言葉)とは少し
違います。音楽はぼくも好きですが、スピーカーから出てくる
音に自分がのめり込んでいくことはないでしょう。

まだわからないことばかりですが、これから先自分自身から
美を創造し表現するためには、内から把握するということは
ぼくにとってたいへん重要なことだと思います。

 

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調和

異なったものに、また時として矛盾するものにさえ、調和を与える
ということは素晴らしいことだと思います。

ぼくは日本文化について学ばなければならないことは多くありますし、
まだまだ未熟ではありますが、不完全なものが完全のかたちになると
いうことを感じ、そのかたちのなかに美を体感できる人間になれるよう、
常に前向きな姿勢でデザインと向き合いたいと考えています。

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古典インドの言語哲学(1)の「声ー音韻論者の見解ー」に
興味深いことが書かれています。

「身体の内部で発動する発声努力によって、上方へと昇ら
された気息(プラーナ)と呼ばれる風(ヴァーユ)は、
身体内部の火に助けられて、声を運ぶ諸々の穴を通じて、
声の繊細な部分を集める。それはちょうど、上昇するひとすじの
煙が、火に助けられて、繊細な部分を集めるのと同じである。
それぞれの発声部位においてこのようにして集められた声の
集合体は、単一の内的なコトバの不可分の影像を、ある光と
しての部分単位によって、受け入れる。」

古代には、声をこのように考えていた(感じていた)人がいた
のかと思うと、ほんとうに驚いてしまいます。

古典インドの言語哲学はまだまだ勉強中なのですが、上昇する
ひとすじの煙が、火に助けられて、繊細な部分を集めるような
知的な働きを感じるのは困難なことかもしれませんが、現代人
でも断片的には感じることができるようにもおもうのです。

考え続けていると写真のような景色をもつことができるのかも
しれませんが、それらをうまくつなげるには視覚や触覚も
必要になり、人間がこのような精神を感じるには、喜びの中に
であって苦しみの中にではない、ということも感じる必要が
あるでしょうか。

つなぎであるあいだは抽象的なものであると思いますので、
できる限り具象化することや、美に向かうための方向を
デザインで示すことができれば、奥行きのある映像を映し出す
ことができるようにも思います。

まだぼく自身が見ている景観はぼやけている部分も多いので、
光景、風景、情景をもっと明確にして統合化していきたいと
考えています。

 

 

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