古典インドの言語哲学(1)の「声ー音韻論者の見解ー」に
興味深いことが書かれています。

「身体の内部で発動する発声努力によって、上方へと昇ら
された気息(プラーナ)と呼ばれる風(ヴァーユ)は、
身体内部の火に助けられて、声を運ぶ諸々の穴を通じて、
声の繊細な部分を集める。それはちょうど、上昇するひとすじの
煙が、火に助けられて、繊細な部分を集めるのと同じである。
それぞれの発声部位においてこのようにして集められた声の
集合体は、単一の内的なコトバの不可分の影像を、ある光と
しての部分単位によって、受け入れる。」

古代には、声をこのように考えていた(感じていた)人がいた
のかと思うと、ほんとうに驚いてしまいます。

古典インドの言語哲学はまだまだ勉強中なのですが、上昇する
ひとすじの煙が、火に助けられて、繊細な部分を集めるような
知的な働きを感じるのは困難なことかもしれませんが、現代人
でも断片的には感じることができるようにもおもうのです。

考え続けていると写真のような景色をもつことができるのかも
しれませんが、それらをうまくつなげるには視覚や触覚も
必要になり、人間がこのような精神を感じるには、喜びの中に
であって苦しみの中にではない、ということも感じる必要が
あるでしょうか。

つなぎであるあいだは抽象的なものであると思いますので、
できる限り具象化することや、美に向かうための方向を
デザインで示すことができれば、奥行きのある映像を映し出す
ことができるようにも思います。

まだぼく自身が見ている景観はぼやけている部分も多いので、
光景、風景、情景をもっと明確にして統合化していきたいと
考えています。

 

 

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海に向くこと

建築家の内藤廣氏に東日本大震災での被災地復興の話を
お聞きしました。

その話の中でぼくが一番印象に残っていることなのですが、
三陸地震津波の公文書には、「住民は海に向くこと」と
書かれてあるそうです。

もしぼくの家族が津波によって帰らぬ人となってしまった時、
果たして海に向くことができるだろうか…と考えさせられ
ました。津波のあとに海に向くということはとても勇気の
いることだと思います。

この言葉はぼくの中の奥深くまで響いています。
これからの励みになりました。

ぼく自身も自分自身に負けてしまうことのないよう、
常に前を向いて生きていきたいです。

 

 

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2016年2月14日 | コメントは受け付けていません。|

カテゴリー:ことばとデザイン

要素と全体

『形態と構造』のカタストロフの構造「要素と全体」から引用します。

『全体を要素に分解し、要素を統計してしまえば、異質の要素
の集合である全体を再び概念的に構成することはできなくなる。
・・・中略・・・
カタストロフ理論にによれば、全体を構成する要素の間の、
ほんのわずかの差異の存在が、全体としての形態すなわち
質的構造の成り立ちを説明するのである。言いかえれば、
統計すれば解消されてしまうような、ごくわずかの量的差異の
存在が、全体としての形態を説明するのである。』

「ほんのわずかな量的差異」。

ここだけに焦点を当てて考えてみると、それぞれの位置や方向に
特殊な強弱がそなわっているようにも感じます。ほんのわずかな
ものではありますが、ここを見る見方によっては、大きなもの
にもなるでしょうか。

通常は解消されてしまうものを、自分の中だけでつじつまを
合わせてしまうと、常識からは大きく離れてしまうものに
なってしまう可能性がありますが、敢えて大きなものにして
しまうことで自分にとっては案外と扱いやすいものになり、
全体の隠喩のように使うこともできるのではないかと感じています。

もちろん客観的に見れることが絶対条件だと思っていますが、
自分の中でことばを安定的に結合できるようになれば、その方法は
共有できるものとして受け入れてもらえるのではないかとも思います。

「質のモデル」「量のモデル」ということもまだしっかりと
理解できていませんので、間違っているかもしれませんが
思ったことを書きました。

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